わたしが生まれたところは、滋賀県の琵琶湖のほとり。すごく片田舎です。
お店も何もない。山と川と田んぼがあるだけでした。
でも今で言う「おタク」だったわたしは、あまり外で遊んだ記憶がありません。
おばあちゃん子だったので、祖母にまとわりついたり、絵をかいたりしながら過ごす、おとなしい子供でした。

自我らしいものが芽生えだしたのは、中学校に入ってからです。男の子が理屈にあわないことを言って弱い子をいじめたりすると、ものさしをふりかざして、男の子を追いかけた覚えがあります。だから「おんな弁護士」というあだ名をつけられました。

すでに「わたしは、将来、自分らしく生きたい、自分らしい仕事をしたい」とそんなことばかり考えていました。

中学校1年のときの日記にこう書いています。
「友達に聞いた。ねえ、看護婦さんになることを、どう思う? 友達は言った。
看護婦さんはオールドミスになるさかい、かなん。でもわたしは思う。もし人の役に立つのであれば、たとえ結婚できなくてもしかたありません」

そんなわたしが、高校3年になって、いよいよ受験する大学を決めることになりました。

わたしは柄も声も大きいので、一見元気が良くてさばさばしており、男性的に見えます。「生意気な女、男まさり」と見られます。

でも。自分しか知らない自分の内面は違うのです。
見かけによらずウジウジとしており、また自他にかかわらず、心を痛めることが多い。また世話好き。とにかく割合女性的な面が強いと感じていました。そこで、さあ 看護婦さんか保健師さんの出番です。
看護婦さんの大学はなかったので、当時あった東大の保健師さんの大学かどこかの薬学部を受けようと思っていました。

小学校の校長先生をしていた父は、厳格で、会話などないような親子関係でしたが、それを聞くと、こんなことを言い出しました。

「医療職につきたいんか。それなら やりがいという点では医者になるのもいいんじゃないか。ただし 医者はきれいな仕事じゃない。人間の心身の汚い面を見る仕事だ。でもそれがいやじゃなかったら、医学部にしたらどうか」

田舎です。お百姓さんか学校の先生かお坊さんしか見ていないような環境です。
医者など、考えたこともありませんでした。

母が泣いて反対していました。
母も小学校の先生でした。でも「女性が医者なんてトンデモナイ! 普通がいい。普通の主婦が一番。女性はね、平凡が一番しあわせなものなんよ」と言って泣きました。
母は仕事を一生懸命していましたが、家事や育児は手抜きでした。できなかったのです。それが辛かったのでしょう。

わたしは迷いませんでした。
わたしの世代は、「女性も働いたほうがいい」と教育された一番最初の世代でした。
だからその影響は大きかったと思います。

でもそれをさし引いても、わたしは、どこか変わった女の子だったと今になって思います。

健康に生まれてきたんだもの。
こんなに丈夫なからだと頭を持って生まれてきたんだもの。
それを生かして生きていかなくて、どうするん。
自分を生かしながら人の役にたちたい。

誰もそんな風には考えない時代でした。
でもわたしは、なぜかわからないけど、自我が芽生えたころにはすでに
そんな風に考えていました。

受験間際でしたが、突然医学部を受けることにしたわたしは、ある国立大学の医学部を受験し、そこに通うことになりました。

田舎がきらい。
家を出て、広い世界に出ることは、わたしの夢でした。

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